LOGIN「神崎さん。落ち着いて、聞いてください――」
医師の声は、ひどく慎重だった。まるで、割れやすい硝子細工をそっと卓上に置くような手つきで、その人は言葉を選んでいた。 杏奈は半身を起こしたまま、点滴の管が揺れるのをぼんやりと眺めていた。さきほどの激しいめまいの余韻が、まだ頭の芯に重く残っている。けれど彼女の意識は、自分の体のことよりも、ただひとつのことに向かっていた。 「あの……お腹の子は。子供は、無事ですか」 声が震えた。それだけが、今の彼女にとってすべてだった。 医師は一瞬、痛みをこらえるように目を伏せた。それから、ゆっくりと頷いた。 「ご懐妊については、問題ありません。赤ちゃんは、無事です」 その言葉に、杏奈の肩からほっと力が抜けた。よかった。この子は、無事だ。彼女は無意識に下腹へ手を当て、安堵の息を吐いた。 けれど、医師の表情は晴れなかった。むしろ、本当に伝えなければならないのはこれからだとでも言うように、その人はカルテに視線を落とし、再び口を開いた。 「ただ、神崎さん。あなたが運ばれてきたとき、激しいめまいと一時的な意識消失がありました。念のため、頭部の検査をさせていただいたのですが――」 言葉が、そこで途切れた。 杏奈は、医師の顔を見た。白衣の人がこれほど言いよどむ姿を、彼女は見たことがなかった。 「……何か、あったのですか」 静かな病室に、機械の電子音だけが規則正しく響いていた。 医師は、意を決したように顔を上げた。その瞳には、職業的な冷静さの奥に、まぎれもない人間としての憐れみが滲んでいた。 「脳に、腫瘍が見つかりました」 腫瘍――その二文字が、杏奈の鼓膜を打った。 脳腫瘍。聞いたことのある言葉だった。けれど、それが今、自分の身に向けられているのだと理解するまでに、ほんの数秒の空白があった。 「……腫瘍、ですか」 杏奈の声は、不思議なほど落ち着いていた。まるで他人の話を聞いているようだった。 「はい。位置と進行の度合いから見て、残念ながら、悪性である可能性が高いと考えられます。しかも――進行性のものです」 進行性。 その響きが、ゆっくりと杏奈の胸の底へ沈んでいった。 「もちろん、より詳しい精密検査が必要です。ただ、画像から判断する限り、すでにかなり進行しています。正直に申し上げます。手術で完全に取り除くのは、極めて難しい場所にあります」 医師の言葉は、ひとつひとつが鉛のように重かった。けれど杏奈は、まだその重さを実感できずにいた。心のどこかが、現実から半歩、後ずさっていた。 「……どれくらい、なんですか」 自分でも驚くほど、平坦な声が出た。 「どれくらい、生きられるんでしょうか。わたし」 医師は、唇を引き結んだ。そして、目を逸らさずに、まっすぐ杏奈を見て告げた。 「現状のままですと――保って、一年ほどかと」 一年。 その二文字が、白い病室の空気に、音もなく溶けていった。 杏奈は、しばらく何も言えなかった。窓の外では、初冬の夕日が、街をオレンジ色に染めはじめていた。今朝あれほど澄んでいた空が、こんなにも早く翳るのだと、彼女はどこか遠いところで思った。 一年。あと一年で、自分はこの世界からいなくなる。 膝の上で組んだ指先が、かすかに痺れていた。最近よく感じていたあの痺れ。立ちくらみも、頭痛も、すべて――疲れなどではなかったのだ。体は、ずっと前から、声なき悲鳴をあげていた。ただ、彼女がそれを、聞こえないふりをしていただけで。 「……妊娠は」 杏奈は、掠れた声で尋ねた。 「この子は、産めるんですか」 医師は、わずかに眉を寄せた。 「それが……非常に難しい問題なのです」 その人は、慎重に言葉を継いだ。腫瘍の治療を本格的に始めるなら、妊娠の継続は母体に大きな負担をかける。場合によっては、治療そのものを諦めなければならない。逆に、子を諦めて治療に専念するという、もうひとつの道もある――。 つまり、と杏奈は理解した。 この子を産むということは、自分の残された時間を、さらに縮めるということ。 「治療に専念すれば、わずかでも、命を延ばせる可能性はあります。けれど、その場合は……」 医師は、最後まで言わなかった。けれど杏奈には分かった。その場合は、お腹の子を諦めることになる。 彼女は、そっと両手で下腹を包んだ。 まだ何の重みもない、平らなそこ。けれどそこには、たしかに小さな命が灯っていた。今朝、ベビー用品の店のガラス越しに見た、淡い黄色のおくるみ。あの子のために、と夢を見た、ほんの数時間前の自分。 あのときの杏奈は、何も知らなかった。自分の命が、こんなにも短く区切られていることを。 「……少し、考えさせてください」 杏奈は、静かにそう言った。 医師は何か言いかけたが、結局、深く頷いただけだった。「ええ。ご決断を、焦る必要はありませんから」と、そっと付け加えて。 ひとりになった病室で、杏奈は長いこと天井を見上げていた。 涙は出なかった。出るほどの実感が、まだ追いついてこなかった。ただ、胸の奥に、ぽっかりと深い穴が空いたような感覚だけがあった。その穴へ、これまでの五年間が音もなく流れ込んでいく。 愛されなかった五年。 昴に冷たくあしらわれ、自分をすり減らし続けた五年。それでも、いつか報われると信じて彼女は耐えてきた。氷はいつか解けると。長い冬には、必ず終わりがあると。 けれど――終わりは、こんな形で訪れた。 春が来る前に、自分のほうが消えてしまう。 杏奈は、ふと笑いそうになった。乾いた、ひどく静かな笑みだった。神様は、なんて意地悪なのだろう。やっと宿った命と引き換えに、自分の命を奪うなんて。やっと、愛する人との未来を夢見られたその日に、その未来ごと、奪い去ってしまうなんて。 けれど。 杏奈は、もう一度下腹に手を当てた。 それでも、この子はいる。 わたしがいなくなっても、この子は残る。 その考えが、暗闇に沈みかけた彼女の心に、一筋の光を投げかけた。 そうだ。たとえ自分が一年で消えるとしても、この子を産むことができたなら。この子が、昴のもとで育っていけるなら。それは――わたしがこの世界に、たしかに生きた証になる。 昴は、子を望んでいただろうか。分からない。あの冷たい人が、父になることを喜ぶ姿など、想像もできない。 けれど、もしかしたら。この小さな命が、彼の凍てついた心を溶かしてくれるかもしれない。わたしが叶えられなかったことを、この子が代わりに――。 そこまで考えて、杏奈はふと胸が温かくなるのを感じた。 決めた、と思った。 産もう。この子を産もう。 わたしの残りの命を、すべてこの子に注いででも。たとえ治療を諦めることになっても。たとえ一年が、もっと短くなったとしても。 この子を、この世界に送り出してから消えよう。 それが、神様が最後にくれた、たったひとつの役目なら――わたしは、喜んで引き受ける。 杏奈の頬を、ようやく一筋の涙が伝った。けれどそれは、絶望の涙ではなかった。覚悟を決めた者の、静かで、温かな涙だった。 彼女は、震える手でスマートフォンを取り出した。画面には昴の名前。 伝えよう。 子供ができたことを。そして――いや、病のことは、まだ言わない。今は言わない。彼に余計な重荷を背負わせたくない。ただ、命を授かったという、その喜びだけを、まず分かち合いたかった。 あの完璧な氷の仮面が、ほんの少しでも揺らいでくれたら。 「お父さんになるのよ」と告げたとき、彼が――たとえ言葉にしなくても、その瞳の奥に、わずかでも光が灯ってくれたら。 それだけで、きっとわたしは。 杏奈は、深く息を吸い込んだ。退院の手続きを済ませ、まっすぐ家へ帰ろう。そして今夜こそ、昴に伝えるのだ。 病院を出ると、空はすっかり夜の色に沈んでいた。 杏奈は、まだ見ぬ我が子のために、もう一度あのベビー用品の店に寄ろうかと思った。淡い黄色のおくるみを、ひとつだけ買って帰ろう。この子が生まれてくる日のための、最初の贈り物として。 けれど、店の前を通りかかったとき、彼女の足は、ふと止まった。 ポケットの中で、スマートフォンが震えていた。 昴からの、メッセージではなかった。 画面に表示されていたのは、SNSの通知。共通の知人が「いいね」を押したことで、たまたま彼女のタイムラインに流れてきた、一枚の投稿。 そこに写っていたものを見た瞬間、杏奈の指先から、温もりが消えた。 淡い黄色のおくるみのことも、まだ見ぬ我が子のことも、覚悟を決めたばかりの自分のことも――すべてが、その一枚の写真の前で、音もなく凍りついていった。「神崎さん。落ち着いて、聞いてください――」 医師の声は、ひどく慎重だった。まるで、割れやすい硝子細工をそっと卓上に置くような手つきで、その人は言葉を選んでいた。 杏奈は半身を起こしたまま、点滴の管が揺れるのをぼんやりと眺めていた。さきほどの激しいめまいの余韻が、まだ頭の芯に重く残っている。けれど彼女の意識は、自分の体のことよりも、ただひとつのことに向かっていた。「あの……お腹の子は。子供は、無事ですか」 声が震えた。それだけが、今の彼女にとってすべてだった。 医師は一瞬、痛みをこらえるように目を伏せた。それから、ゆっくりと頷いた。「ご懐妊については、問題ありません。赤ちゃんは、無事です」 その言葉に、杏奈の肩からほっと力が抜けた。よかった。この子は、無事だ。彼女は無意識に下腹へ手を当て、安堵の息を吐いた。 けれど、医師の表情は晴れなかった。むしろ、本当に伝えなければならないのはこれからだとでも言うように、その人はカルテに視線を落とし、再び口を開いた。「ただ、神崎さん。あなたが運ばれてきたとき、激しいめまいと一時的な意識消失がありました。念のため、頭部の検査をさせていただいたのですが――」 言葉が、そこで途切れた。 杏奈は、医師の顔を見た。白衣の人がこれほど言いよどむ姿を、彼女は見たことがなかった。「……何か、あったのですか」 静かな病室に、機械の電子音だけが規則正しく響いていた。 医師は、意を決したように顔を上げた。その瞳には、職業的な冷静さの奥に、まぎれもない人間としての憐れみが滲んでいた。「脳に、腫瘍が見つかりました」 腫瘍――その二文字が、杏奈の鼓膜を打った。 脳腫瘍。聞いたことのある言葉だった。けれど、それが今、自分の身に向けられているのだと理解するまでに、ほんの数秒の空白があった。「……腫瘍、ですか」 杏奈の声は、不思議なほど落ち着いていた。まるで他人の話を聞いているようだった。「はい。位置と進行の度合いから見て、残念ながら、悪性である可能性が高いと考えられます。しかも――進行性のものです」 進行性。 その響きが、ゆっくりと杏奈の胸の底へ沈んでいった。「もちろん、より詳しい精密検査が必要です。ただ、画像から判断する限り、すでにかなり進行しています。正直に申し上げます。手術で完全に取り除くのは、極めて難しい場
神崎家の朝は、いつも音もなく始まる。 杏奈は六時前に目を覚まし、隣で眠る夫を起こさぬよう、息さえ潜めてベッドを抜け出した。広すぎる寝室には、ふたりの体温が触れ合った記憶などひとつもない。 昴はいつもベッドの端で背を向けて眠る。まるで、隣に誰かがいることそのものを拒むように。 それでも杏奈は毎朝、この背中を見つめてから一日を始めた。漆黒の髪が枕に散り、シーツの白さの上で、彼の輪郭だけが彫像のように整っている。 眠っているときの昴は、ほんの少しだけ、あの近寄りがたい硬さを解いて見えた。だから杏奈は、この数十秒が好きだった。彼が目を覚ませば、すぐにまた氷が張ることを知っていても。 カーテンの隙間から差し込む朝の光が、彼女の指先を白く透かした。細く、長い指。かつては鍵盤の上で歌うように動いた指だ。今はもう、誰のためにも音を奏でることはない。結婚してからピアノには触れていなかった。昴が、音楽を好まなかったからだ。 キッチンに立ち、杏奈はいつもの朝食を整えはじめる。昴の好みは、もうすっかり覚えていた。塩気は控えめに、コーヒーは深く濃く、卵は半熟の一歩手前で。五年という歳月は、報われない努力ばかりを彼女に積み上げさせた。 艶やかな栗色だった髪を、後ろでひとつにまとめる。鏡の中で、色素の薄い琥珀色の瞳が、感情を消したまま自分を見返していた。結婚してから、彼女は自分を飾ることをやめた。華やかな色も、ゆるく巻いた髪も、すべて手放した。 昴が「派手な女は好かない」と、たった一度こぼした言葉のために。彼の好む地味な妻でありたくて、杏奈は自分らしさを少しずつ手放してきた。削れば削るほど、いつか彼の隣にぴたりと収まれる気がして。 愚かだと、誰かに笑われてもいい。それでも杏奈は、昴を愛していた。 階段を下りる足音がした。「おはようございます」 杏奈が顔を上げると、昴がスーツの袖口を直しながらダイニングへ入ってくるところだった。百八十五センチの長身に、隙のない仕立ての黒。整えられた前髪の下で、切れ長の双眸が彼女を一瞥し――そして、何も映さなかった。 おはよう、の返事はない。いつものことだ。彼はただ、用意された椅子に腰を下ろす。 杏奈はコーヒーを注いだ。湯気の向こうで、彼の横顔は完璧なまま動かない。誰もが振り返る美貌だと、世間は言う。 財閥の若き総帥、神崎昴。 冷







